何を大切にして生きるのか
最近感じていることを思いつくまま書いていきます。
他人の評価や世間体、常識、慣習を大切に思って生きている人がほとんどだと思います。なぜならば自我自体が、他者の視点、他人が自分をどのようにみているかというイメージによって形作られているからです。しかし、時代が進むにつれて、生きづらさを感じる人も多くなっているように私には見えます。例えば会社勤めの人はよく体験されていると思いますが、業務改善という名目で職場の問題点を探し出し、対策を立てていくということがよく行われています。問題が起きればそれに対処していくというのは当たり前のように見えますが、対策をたて、規則を作れば作るほど自由度が失われていく、あるいは自分の判断ではなくマニュアルではこうなっているからということで、自分の判断力が失われていくということが起こってきます。良かれと思ってやっていることが、だんだんと自分を縛り付け、自由がきかなくなり、何か見えない力に組み込まれていき、組織やシステムの歯車のようになっていくようになります。それは社会そのものの制度やシステムについても同じです。社会問題が起きるたび、新しい法律が作られ、それがかえって人々をがんじがらめにしていきます。便利さを求めながら、実は不自由になって、いろんなものに縛り付けられて、生きづらくなるのです。
それでは、そのような生きづらさからどのように脱却していけばいいのでしょうか。他者の視線を無視し、自分らしさを求めていけばいいのでしょうか。結論はそうであっても、一気にそこへいくことはできません。社会生活をしている以上、社会や人間関係を無視していきることは難しいのです。むしろ、社会をよく知り、人間関係の細々したことを体験した先に、そこへ到達するのではないかと考えます。
人それぞれ自分の課題をみつめ、試行錯誤しながら解を求めていくというのが正道ではないかと私は考えていますが、何を大切にして日常生活を送るかによって、見え方がかなりかわってきます。私が何を大切にしていきているかをご紹介することで、皆様にとって何かヒントを与えることができれば嬉しく思います。
まず第一に、丁寧に生きるということを大切にしています。食事にしても自分の身体が何を欲しているのか耳を澄ませ、自分に合うものを適量いただくことにしています。自分に合うものはなかなか売っていませんので、ほとんどが手作りになってしまいます。日常生活に必要なものはほとんど手作りしています。最近では、私の作った石鹸や化粧水が欲しいといって、購入される方もいらっしゃいます。敷地も広いので、気の通りがよくなるように配置を変えたり、草を刈ったり、水路を掃除したり、細かくケアをしています。エクステリアもそうですが、インテリアもいろいろその場にあったものにしています。築100年くらいの古民家ですが、毎日細かくケアすることで、場が明るくなり、すがすがしくなります。コーヒーが好きなのですが、市販のコーヒーは輸入の段階でかびないように防腐剤が大量に使われています。生産の段階でも農薬が使われています。ですから私は信用できる業者から生豆の状態で購入し、貝殻のパウダーを入れた水に一定時間つけてから乾燥させ、自分で焙煎してコーヒーを飲むようにしています。ただこれは私がこだわっているというだけの話しであって、人間の身体は案外丈夫ですので、おそらく食材においても、し好品においても、そんなに気にせず、感謝して食べれば天寿は全うできるのではないかと思っています。自給自足や手作りをお薦めしているわけではなく、丁寧な生活をしていると、創造性が触発され、創意工夫するなかで、妥協できない部分は自分で作るしかないという風になっているということです。お客様に接する時も、一期一会と思い、丁寧に真心をこめてお身体に触れるように心がけています。丁寧に生活することで、愛がはぐくまれるように感じます。逆に愛のある人は丁寧な生活をしているといえます。丁寧と愛は表裏一体です。愛のある人になるためには、丁寧に生きることを心がけてください。丁寧に生きようと思っても、最初はなかなか大変だと思います。でも日々心がけていくと徐々にそのように生きることができるようになり、それが豊かさにつながっていきます。豊かさとは何かを知るようになります。本当の豊かさを日々実感することができるようになると、生き方が徐々に変わってきます。金銭や社会的地位があれば豊かさが手に入ると勘違いしている人がいますが、丁寧な日常生活が豊かさをもたらすのです。
二番目は、目に見えないものを大切にするということを心がけています。例えば肌着においては、見た目も大切ですが、肌に触れる感覚がいいものを選ぶようにしています。下着は普段人に見せるものではありませんが、人に見せないものほどいいものを使いたいと思っています。丁寧さと重なりますが、真心というものも目に見えないものです。生活の一瞬一瞬真心を込めて生活するよう心がけています。動機というものも大切です。どういう動機で人と接するか、仕事に取り組むかは非常に重要と考えています。誠精を込めるという言葉を若い頃は使っていましたが、見えないものを大切にして真心を込めて生活し、人にも接するということは、山にこもる必要もありませんし、出家する必要もありません。普段の日常生活で仕事をするにおいても人に接することにおいてもできることです。 誠精を込める生活を続けていくと、生活そのものが祈りとなります。仕事が瞑想になります。日常生活が祈りや瞑想になると、それ自体が修行と同じですので、段々と感性が磨かれてきて、ものの見方が多次元的になってきます。見えない世界がわかってきます。見えないからないのではなく、見えないものが本質であることがわかってくるということです。自分自身も俯瞰できるようになりますので、高次の自分から普段生活しているいろんな感情を抱えて生活している自分を見ることができます。いろんな感情は感情のままとどまっていると、エネルギーとして自分の中にとどまっていて、感情に振り回されるということで、その感情が不幸の原因にもなってしまいますが、感情を言語化することで、そのエネルギーを解放することができます。当サロンの女性セラピストは言語化能力がとびぬけて素晴らしい人ですので、私もずいぶん助けられています。彼女と接した多くのお客様もそのことは感じ取られている方は多くいらっしゃいます。
三番目は、受容ということです。人は誰かに自分の全存在を受け止めてほしいと常に願っています。そういうふうに創られているといってもいいでしょう。産まれて最初に接する人間は母親です。ですからほとんどの人は母親から受け入れてほしいと願っています。しかし良好な親子関係はまれです。親が毒親だったり、子供のほうが感性が鋭すぎて、親が子供を理解できないということは多々あります。理想的には、そういう親子関係を改善し、本当に理解しあえる関係を構築できればいうことがないのですが、実際はかなり難しいことです。親には親の人生があり、自分とは全く別人格です。親を親としてみるのではなく、一人の人間として見ることができるようになるといいです。私自身はそのことにすべての人生をかけて取り組んできて、最終的には親の怨みをすべて解放してあの世に送り出すことができたのですが、そのことに全人生をかけることができる人以外にはその方法はお勧めできません。本当に大変ですから。実は受容されるということは親でなくてもいいのです。自分のことを自分以上にわかってくれる人というのは、世の中を探せば見つかるものです。親を変えようとするよりも、親に代わる人を見つけるほうが楽かもしれません。さらに言えば、そういう人すら不要ともいえるのです。大自然が受容してくれます。毎日自然と接していると、自然が受容してくれていることを感じるのです。世の中の人は人間関係が全てと思い込んでいるようですが、人間関係などちっぽけなものです。自然に包み込まれ抱かれている感覚を発見すると今まで悩んでいたことがちっぽけなものだとわかります。自然が輝いて見えることがありますし、風や水や植物と会話することもできます。そういう世界があるということがわかると、人生は大きく変わります。田舎に住めばいいという問題でもないのですが、自然とともに生きる方法を見つけ出すことはとても重要だと思います。田舎は田舎特有の慣習や人間関係があるので、そういうものもよく理解する必要はあります。
思い付くまま書いていますので、まとまりがなくなってきました。言いたかったのは、日常生活を丁寧に生きるということに尽きると思っています。私のささやかな体験が皆様の何かのお役にたてばと思い、書かせていただきました。
わからなかった人(興味を持った人も含めて)は、一度当サロンの施術を体験してみてください。丁寧さや受容など、上記の内容をすべて含めたものが当サロンの施術ですので、何か体感としてわかっていただけるのではないかと思っています。